今日は何の日5/20

   レバノンイスラム教対キリスト教の内戦勃発

 

 レバノンの混沌とした長い内戦は、1975年4月、ベイルートでバスに乗ったパレスティナ人らのイスラム教徒をキリスト教徒が攻撃したときに始まった。数週間後には、国中で砲弾が飛び交い、レバノン中央政府は事実上崩壊した。

 紛争の根は、フランスがオスマン帝国からこの地域を引き継いだ1920年代にさかのぼる。この時フランスは、<山のレバノン>と呼ばれるレバノン山脈とベカー高原を中心とする地域に、シリアのいくつかの地区を加えてレバノン共和国を設立した。イスラム教徒とマロン派キリスト教徒が同居するこの国は、常に不安定な状況におかれていた。しかし、70年代以降、ヨルダンから追い出されたパレスティナ人が流入してくると、貧しい人々が大半を占める農村部のイスラム教徒と、比較的恵まれた都市部のキリスト教徒との間の緊張が高まった。人口ではイスラム教徒がわずかに多数を占め、キリスト教徒の地位を脅かすようになった。

 パレスティナ解放機構(PLO)がレバノン国内の基地からイスラエル攻撃を行うようになると、イスラエルはこれに対する報復としてレバノンの村々を爆撃し、レバノン国内の右翼のキリスト教徒はイスラム教徒の襲撃に走った。レバノンにもともと住んでいたイスラム教徒も、パレスティナ人ともどもその標的となり、対立はエスカレートした。

 レバノンの背後を囲む位置にあるシリアは当初、左派イスラム教徒の運動を支援していたが、1976年の初めになってイスラム側の勝利が決定的になると、首相アサドはイスラエルの介入を恐れて、2万の兵をレバノンへ送り込み、キリスト教勢力の回復に力をかした。

 1976年以降レバノンの国土は<停戦ライン>によって分割されるが、ベイルート市街を横切るこのラインは、北側をキリスト教徒、南側をイスラム教徒が支配し、争いが絶えなかった。かつて中東の銀行業とバカンスの中心地として栄えたこの国は、戦闘の絶えない泥沼と化していった。